03)アストラルボディ
今思えば、あの頃俺が感じていた“世界”“自我”“感覚”“肉体”“意識”“幸福”うんぬんは
いったい何だったのだろうか?と、ちょっと不思議な気持ちになってくる。
当時の俺はきっと、以前に何かの本で読んだイモ虫の話・・・
『イモ虫は平面しか知らない、どこまでも行っても平面の二次元の世界に住んでいる。』
の、イモ虫のようだったんだな・・・とも思う。
すると今の俺はさしずめ、誰かにつまみ上げられて、空間ってものを意識できた三次元のイモ虫ってところか?
まぁ、どっちみちイモ虫にはかわりない。
まてよ?イモ虫もサナギになり蝶になった途端に空間を意識するようになる。
そうすると、俺もイモ虫から蝶になれたってことか?
イモ虫なのか蝶なのかはともかく、
もうちょっとは慣れたといえ、肉体を持たない生活(生活とよべるかはわからないが・・・)には、
最初の頃は正直かなりとまどった。
一番の驚き・・・音が無い。
今の俺の世界には空気の振動としての音はない。
耳がないのだから音などないのは当然といえば当然なのだが、
感覚的にはショックだった。
実際には目もないので、目で光を感じてモノを見ているわけでもないのだが、不思議なことに暗闇ではない。
今も現に世界を映像として見て(?)いる。
映像としての認識は、目でモノを見ている感覚に近いので昔とあまり違いはない。
結局、時間も含めた物理の制約をほとんど受けなくなっているので、
五感での知覚というものが、ただそのまま“わかる”という一感になってしまったってことだ。
もっとも、視聴覚や皮膚感覚は憑依したBODYの感覚器官の神経を介せば認識できるので、
まるで生身の五感を失ったわけではない。
しかしBODYの神経に感応すると、五感だけではなく喜怒哀楽の感情までもが流れ込んでくるのでかなりハードだ。
人の身になって・・・という言葉があるが、やっぱ俺にはできないね。
他人さまの喜怒哀楽を文字通り神経を介して一度でも生で感じたら、正直、二度とごめんだという気になる。
俺はBODYに憑依しているわけだが、そういうわけで、極力BODYへの干渉は避けている。
BODYにしたって、俺にああだこうだ干渉されるのは気分のいいもんではないだろう。
よく霊能者が憑依の状態を“肩にのっている”とか、“頭の後ろに顔が見える”とか表現するが、
当たっていなくもないがそれはちょっと違う。だいち、俺には顔はない。
人間の使う言葉という道具は、所詮、“物理”な世界を表現する語彙しか用意されてない(当然だが)ので、
残念ながら憑依の状態を説明するには概念の軸が一本足りない。
なのでかなり雑な、トンマな例えになってしまうが、
俺の場合は、しいて言うならば、上から見ている感じ(?)とでも言うべきか・・・
中にはBODYにずっぽり入り込んで“重なってる”奴もいるが、
俺はさっきも言ったようにBODYと肉体感覚や五感、感情を共有するなんてことは絶対にごめんだ。
今、BODYは、車で首都高羽横線を横浜方面に向かって運転している。
というか、俺は先ほど首都高の平和島料金所で、料金所のおっちゃんからこのBODYに乗り移ったばかりだ。
そいえば、高速の料金所っていう場所は“HAND TO HAND”がBODYを乗り換える絶好の場所だ。
不特定多数の手と手が直接触れ合う場所はみなそう。
だから、職業によっては毎日違う“HAND TO HAND”を連れ歩くって場合もありえる。
そうこう言っている間にBODYの車は、渋滞していた大師を抜けると120km/hにスピードを上げ、
2車線の京浜区域をやや強引な車線変更を繰り返し走り抜ける。
分岐を湾岸に向かい、長いカーブの続く大黒あたりを過ぎベイブリッジに乗ると、
それまで路側の防音壁に塞がれていた左右の視界が一気に広がり、右に横浜のみなとみらいの夜景が見える。
その先の本牧出口に差し掛かると、BODYはウインカーも出さずに追い越し車線から一気に出口への車線に車をなめらかに滑らせ、
そのまま出口のスロープを降りていった。
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